生きなくてはいけない理由
めっきり朝夕、涼しくなり、
もう随分と秋色が濃くなってきました。
でも日中はまだ蒸し暑い日があって、
寒暖の差で身体がまいってしまいますね。
こんな不安定な気候の時は、身体だけでなく、
精神的にもぐっと落ち込んでしまい、
苦しい記憶や感覚までも思い出されて、
生きている事も苦しくなってきてしまいます。
被害から時間が経過し、
今現在は幸せに生活していても、何かの拍子に思い出してしまうのです。
普通なら、空気が冷たくなって、
金木犀のいい香りと一緒に吹く風が気持ち良いなと思えるはずなのに、
被害に遭った時、私はどんな思いだったのかとか、
あの時、こうすれば良かったとか、
また、被害の時へと自分の思いが引き戻されてしまって、
死んでしまいたくなるのです。
でも、ここ最近、そんな絶望的な気持ちと一緒に、
私を支え続けてくれた叔母の言葉を思い出すようになりました。
坊主丸儲け
被害から裁判までの間、本当に死にたくなるほどの時間でした。
相手の不法行為を立証するためには、
被害のとても詳細な部分まで思い出し、
それを言葉にしなければなりません。
出来上がった訴状を確認する事は、
もう一度、被害に遭ってるほどに苦しい事でした。
汚れた自分を自分自身で受け入れる屈辱感は言葉にはできません。
加害者以上に自分が憎くて、死んでしまいたいというよりも
殺してやりたいと思っていたものです。
自己制御が全く利かなくなった私にいつも寄り添ってくれた叔母が、
いつも私に言ってくれていた事があります。
「死んだら負けなのよ。あなたが死んだら、喜ぶのは相手なのよ。
坊主丸儲けなのよ!そんな悪い相手を喜ばしたら絶対ダメよっ!」
被害から間もないその時は、叔母の言っている事が理解できなくて、
なんてキツイ事を言うのだろうと思っていました。
誰が喜ぶのか、勝つのか負けるのかなんてどうでも良い事で、
ただその記憶から自由になりたいだけなのに、
なんて辛い事なんだろうと思っていました。
そして、いつも書いているように、何とか一日を乗り越え、
生きる理由を見つけ、繋合わせるように日々を重ねるように生きていると、
時間と共に自分の環境が変化していきました。
裁判が終わり、新しい出会いがあり、
自分のやりたいこと(多分正確には、死ぬならやっておきたい事)が見つかって、
少しだけ気持ちに余裕ができて、
あの時の叔母の言葉の意味が理解できるようになりました。
生きる理由
性犯罪や虐待は弱いものいじめと一緒です。
自分よりも力が弱いものを見つけて、
支配しようとする卑劣極まりない行為です。
よくテレビ番組等で「いじめ」を扱ったものがありますが、
そういった作品をみていると、
いじめている側はいじめる事を楽しんでいますよね。
少し前に起こった東大生が女子大生を泥酔させ、
集団で暴行した事件がありました。
その時の主犯格の東大生の犯行理由が
「人が苦しむ姿を見るのが楽しかった。」という証言からもわかる通りです。
でも、先回の人権の記事でも述べたように、
この世に傷つけて良い人なんかいないし、
誰かを傷つけて良い権利なんて存在しないのです。
それを普通に言葉にしたり、行動にできる人間なんて悪いのです。
そういった「悪い事」がわからない人間もこの世にはたくさんいるでしょう。
だけど、そういう人間に悪い事は悪い事なんだと教えるためには、
私は死んではいけないだと、辛くても生きて、
「性犯罪や性暴力は、相手が死ぬほど苦しい事なのだ。」
そう伝え続けていくことが
私が生きる理由なのだと思うようになりました。
今でも、叔母とは月に一回は食事に行ったり、
お散歩に行ったりして逢うのですが、
先月、叔母に逢った時に私が生きる理由と、
叔母の言葉の意味を尋ねたら、
「そうよ。当たり!
強くなったわね。安心したわ~。」
笑いながらそう言っていました。
その時の叔母の笑顔は、あの時の叔母の顔と違って、
すごく優しくて温かい、小さい頃から大好きだった叔母の顔でした。